先週末、校庭の桜が一気に花開いた。校舎の窓から見渡す山肌には、まだほんの少し雪が残っているが、ここ五箇山にもようやく春が訪れた感がある。自宅周辺の桜はすでに散ってしまい、家の裏にある竹藪ではタケノコが次々と頭を出し始めた。昨日は、この冬の雪で折れてしまった竹の始末と、一年ぶりのタケノコ掘りで汗をかいた。

 さて、毎年4月になると、ふと脳裏をよぎる歌(と言っても俳句)がある。それは、高浜虚子(たかはま きょし)という俳人の「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」という一句である。この句は、俳句革新運動を主唱した正岡子規が亡くなったあと、季語や定型にこだわらない「新傾向俳句」を唱えた同門の河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)に対し、俺はあくまでも子規の「有季定型句」を守るぞという高浜虚子の決意表明と言われている。

 高浜虚子と河東碧梧桐は、同じ愛媛生まれで伊予尋常中学校の同級生でもある。「春風や」の句は、同郷の友に対するライバル心を感じさせるが、「闘志」はあくまでも自分の内から湧き出たものであり、自身への叱咤激励である。春は学生にとって入学や進級、社会人にとっては就職、新たな部署への異動など、自分を取り巻く環境が大きく変わる時期である。この句は、私にとっても、新年度を迎えこれからまた一年がんばるぞという自身の気持ちに添う一句なのだ。

 そんな心持ちでいたところ、先日、通勤中の車のラジオからスピッツの『春の歌』が流れてきた。この曲も、初心に戻り、自分の描く夢や目標に向けて背中を押してくれる歌である。歌詞の中に「遠い空に映る君」という言葉がでてくる。大切な人、愛しい人という解釈もできるが、私としては「自分自身の夢や希望」に置き換えると、とてもしっくりくる。「何処までも続くこの道」は、諦めない限り自分の前にあり続けるに違いない。