9月に入り急に涼しくなってきた。夏も終わりに近づいた感がある。

 さて、今年の夏は東京オリンピックにパラリンピック、新型コロナウイルス感染拡大と、何かと騒がしい夏だった。コロナ禍ではあったが、昨夏とは違い、インターハイや全国高総文祭、夏の甲子園大会が開催された。本校郷土芸能部も、3年ぶりに全国の舞台に立って練習の成果を披露することができ、見事7年ぶりに全国入賞を果たした(「優良賞」受賞)。

 この夏、特に私の印象に残ったのは、8月29日甲子園大会決勝戦(智弁学園対智弁和歌山の試合)である。兄弟校同士の対決、見分けのつかない両校のユニフォームなどが話題となったが、私が注目したのは、この試合で1塁塁審を務めた堅田外司昭(かただ としあき)審判員さんだった。

 堅田さんは、今から42年前、1979年夏の甲子園大会3回戦、簑島高校(和歌山)と星稜高校(石川)が延長18回の死闘を繰り広げた時の星稜のエースピッチャーだった。当時、高校1年生だった私は、延々と続くこの試合を家のテレビで観戦していた。まるでドラマを見ているかのような試合展開。開始から3時間50分、延長18回裏、簑島の4対3サヨナラ勝ちで試合は終了。この日、星稜の堅田投手は208球を投げたが報われなかった。

 堅田投手は、高校卒業後は社会人野球に進み、その後、野球界に恩返しがしたいとの思いから審判に転向。高校野球の審判員として春夏甲子園のグランドに立ち続けてきた。そして29日、智弁対決となった今年の決勝戦が堅田さんの審判員としての現役最後の試合となった。私は、試合中時々映る堅田さんの姿を見るにつけ、42年前のあの激闘が脳裏によみがえり、試合後、思わず画面の向こうの堅田さんにお疲れさまと声をかけた。

 全国の舞台に立つという経験は、勝ち負けがどうであれ、その人の人生に何かしら大きな影響を及ぼすものなのかもしれない。堅田さんは「恩返し」という思いで審判としての人生を歩まれたが、郷土芸能部の皆さんも、この夏の和歌山での経験を、今後の高校生活やその後の人生に大いに活かしてもらいたい。日本一に届かなかった悔しい思い、お世話になった方々への感謝の気持ちは、きっと今後の原動力となるに違いないと私は信じている。